自力で掴まれず、塀は難しい。
桜の枝も。紙を敷いてやる。
小さな翅。
翡翠のような儚い姿。
強くなってきた朝日が当たる塀で羽化を始めた蝉の幼虫。天敵から丸見えの場所だった事もあり、見守ることにした。1時間くらいかかるらしいが、仕方がない。出掛ける家族を見送りに出た時だったが、出掛けるはずの息子は見守る決意をして鞄を置いてしまった。風が吹いて心地よい場所だし、ひとつ気長に道連れになるとしよう。ようやく体が出て、翅が出て…しかし、様子がおかしい。どうやら左側の翅が殻から抜けないらしい。そうこうするうちにポロリと、つかまっている足が殻から外れ、抜けない翅でぶら下がったようになってしまった。私達には心地よい風だが、彼には命取りの強風だったのだろう。翅の問題がなくても、落下の衝撃で終わってしまうところだった。仕方がないので、殻ごと外して家に連れ帰る。もはや捕まる力も弱々しく、自力では到底無理らしい。羽化に成功する蝉は半分程度と聞くが、彼の姿を見ていると頷ける話だ。網戸でやいやいと鳴きたてる蝉に、うるさいと腹を立てていた自分を反省する。殻を鋏で切り、外れなかった翅を丁寧に外してやる。半分だけは綺麗に出来上がっているのに、時間が経っても小さな翅は変わらず、左側が不完全なようだ。見つけた時の彼は、薄茶色の透明な殻から、翡翠のような頭を出していた。額には宝石の如く美しい複眼が輝く。次第に姿を現す彼の、その美しい事。これを筆舌に尽くし難いと言うのだろう。中国には翡翠を彫刻した蝉や蝗があるが、きっとこの姿を再現したのだ。正に翡翠、なんと美しく儚い姿である事か。その彼は、息子の古い昆虫箱の中で、懸命に生きようとしている。翡翠から柔らかな蝉色に色を変え、飛翔する事のない翅を従えて、じっと生きている。窓の外では蝉が鳴いているというのに、彼は黙して佇んでいる。もう長くない己の命を知っているのか。蝉は地上で飛び回る時間は短く、地中で過ごす時間の方が遥かに長い。地中で、あの小さな足で土を掻いて、楽しく伸び伸びと生きていたと思いたい。微かな生命が消えかかっていく彼を見守りながら、心配しながら出掛けていった心優しい息子への言葉を考えている。
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