金無垢こそ大人に相応しい。
本物は傷までも深い味となる。
幼少の頃、流行のテレビアニメキャラクターがプリントされた靴は買ってもらえなかった。流行の形の服も髪型も、母は悉く却下したから、私はいつでも、誰にも似ていない姿で登校していた。道具箱や裁縫箱までも学校指定の物は選ばない徹底ぶりだったし、流行漫画の主人公を真似て描いた絵などは当然御法度で、どんなに上手く描けても時間の無駄と叱られた。エドウィンのオーバーオールは着にくかったし、コンバースのハイカットも紐が難儀だったが、今思えば随分と洒落ていたと思う。近頃はコンバースも中国製になり、日本のどこでも手に入る代物だが、数十年も昔の事、アメリカ製のバスケットシューズはなかなか入手困難だったはずだ。それが証拠に、5クラス6学年あった小学校全体で、同じ靴の人はついぞ見た事がない。母はいつも、人と違う事、個性的である事を重んじ、大いに金持ちらしく格好良くしていなくちゃいけないんだと教えられた。なるほど授業参観に来る母は周りから浮くほど華やかで、その足元はスリッパではなくて、上履き用の美しいパンプスだった。そんな母に、人は見た目通りの人生になるのだから、気前よく見栄を張って格好良く生きなきゃいけないと言われて育った私も、目出たく同じような感性となった。安物は絶対に買わない。高価な物を選ぶ。これは徹底している。物を大切に思う気持ちは、それに支払った金額と同等だから、高価な物は絶対に長く大切に出来るのだ。高価な分の価値も理由もある。何より、それを身に着ける事が身分証明の役割を果たす場面が実に多い。その逆も。流行りの安物に身を包み、安価な物を身に着けていては通用しない場面も、実はあったりする。高価な物といえば、アンティークロレックスもそのひとつ。当時、主人はビカビカし過ぎると嫌がっていたが、今ではすっかり板に付き、時計に見合った人物になっている。身に着けるものは、かくも人を変えるものである。子供が幼稚園の時のエピソードをひとつ。その日は実家に出向かねばならず、「母に会うため」のお洒落をして、その格好のままで迎えにいった。いつも何かと金持ち風の話を振り撒いているKさんが私を見て一言、「パーティーにでも行くの?!」。その目の底にある嫉みの色は悲しく、引き攣った笑顔はとても醜いものであった。ええ、パーティーよりも緊張する実家に行くのです、と答えて立ち去ったが、素敵にしていると当て擦りや陰口を言ったり、クスクス笑ったり,仲間外れにしようとする人も一定数いるものだとも教わっているから、ああまたかと思うばかりであった。その日母からは、「あら、いいじゃない!」とのお言葉を頂戴できたが、件のKさん一家はその後色々あって横浜を去り、今は何処で何をしているのか私は知らない。
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